
2000年11月、1週間に10本舞台を見てぐったりしたのに忘れられない大野一雄の映像
今年、大野一雄の公演を見る機会が2回あった。一度目は夏に世田谷パブリックシアターで、もう一度は秋に慶応大学で。94歳という老齢で、踊りの途中でバランスをくずし、自分の足をいましめるように叩くような場面が多々あった。ある意味、緊張感あふれるスリリングな舞台で、大野がバランスをくずすと見る側まで力が入る。観客が一丸となって大野を見守り応援でもしているかのような舞台だった。終演後のロビーでは、目を潤ませた人をいっぱい目撃した。さすが年寄りを大事にする日本だよと思う。(自分も危うく落涙しかけた一人なのだが。)
最近の大野の舞に対する感動は、赤ん坊が立って歩けたことを祝福することに似ている。犬や赤ん坊を眺めていてまったく飽きないのと同じで、「生きてておめでとう!」と叫びたいような気持ちがじわじわとくる。自分がばかになれるほどに純粋な善意の感動を伴う。
とは言うものの、実は少し前までは、私は大野の舞で感動した覚えがなかった。むしろ、同席する多くの観客が目を赤くしているのに出くわすと、どちらかというと辟易していた。 これだけ心動かされるようになったのには、大野がいよいよ衰えたということと、自分をとりまく環境の変化に伴ない、老いたものに対する愛(かな)しいという感受性が鋭敏になったということがある。では、初めて大野の舞(「睡蓮」だった)を観た時の感想はというと、「あー楽しかった。」だった。その楽しさの理由は、当時は今一つわからなかったが(理由もわからず楽しい作品というのも不思議だが。)あえて言えばエンターテイメントを見た心地に似ていた。
さて11月に「大野一雄オン・スクリーン」と題された大野の映像上映会をオリベホールで見た。数々の作品の中、まだ若い(といっても70か80代くらいだろうか)大野の記録映像を見て、初めて「睡蓮」を見たときの心地が倍になってよみがえってきた。大野は美しいドレスや帽子を身にまとい、髪に花を飾り、化粧をし、意気揚揚と踊っていた。それを見る時の気持ちがあまりにも、最近の彼の舞を見る自分の姿勢とギャップがあって、はっとした。特に彼のドレス姿から目が釘付けで、まったく別物とは分かっていてもどうしても思い出してしまうものがあった。ドラアグクイーンである。見る時の面白さにおいて、大野のドレス姿とドラアグクイーンは大変似ているのだ。
ドラアグでは、フェミニンな装置を身につけるものの、単なる女装とは異なり、その女ぶりは過剰である。男性がドラアグをする場合は、その過剰さゆえに、男の体が浮き、本人が生身の女性ではなく男性であることがはっきり見えたままの「女装」になっていることが多いと思う。(個人によるが)「美女」の過剰な記号(異常に長い付け睫とか、ぎらぎらのアイシャドウ、てかてかの分厚い唇、巨大なかつらなんか)をくっつけた人工的な「美女」に、見る者はシニカルな笑いを誘われる。しかしふとしたおりとか、見なれたころに「いや、ちょっときれいかも」と思ってしまう。大野の場合も彼のドレス姿は、ドレスが美しければ美しいほどに、普通の感覚では(そのドレスが本来着用されるコンテクストでは)、まったく似合っていないし、不気味だ。(なにしろドレスはヨーロッパで見つけた本物のアンティークらしいし。一方それを着用する大野は生粋の日本人のおじいさんなわけだから。)しかし、そのドレスや化粧によって、大野自身が逆に浮きあがって見えてくる。そして、優雅なしぐさと微笑みにほんの一瞬、そこにいるのは大野でしかありえないのに、大野の想う美しい女性が想像できて華やいだ心地になったりする。また、はしゃぎ踊る姿は、母親の着物を着たくてしょうがなくて、こっそり着てみるものの、ぜんぜん似合っていない子供のようでもあり、ドレスに対する非常な憧れと、そのドレスを着ている人に対する憧憬がありありと見えて、つい微笑んでしまう。
大野のドレス姿は、何かになりかわった「役柄」ではない。大野自身がそのドレスと戯れ、着飾ることで、そのドレスを着るべき女性の寄りましとなっているのではないか。それは、大野であり大野ではなく、アルヘンチーナでありアルヘンチーナではない。「彼女」に乗り移る事で、その女性性をあがめると同時にとむらっているかのように思えることもある。ドレス姿の大野を見るとき観客には、そのあからさまに浮いた扮装ゆえに、大野本人やらアルヘンチーナや母やもっと抽象的な存在さえ行き来して、ほぼ同時かと思える高速でそれらすべてが見えているのではないか。
さて、最近の大野はというと、化粧なしのタキシードで踊っているのを見ることが多い。化粧は大変すぎるのだろうか、などと想像もするが、むしろ、もはやドレスや化粧さえ必要なくなったというべきなのかもしれない。タキシードのようなシンプルな衣装と大野の体ひとつで十分というわけだ。故市川雅氏は、故土方巽の筋肉がおち、贅肉がそぎおとされたストイックな身体を、土方の思想が昇華された身体と呼んだそうだ。(P.56『見ることの距離』2000)いま、大野の老いた身体は彼の作品をもっとも反映する体になったと言えるのかもしれない。今こそが大野の時の花といえるのではないだろうか。そしてドレスも化粧もなしの自らを晒しつづける大野はまったくしたたかな芸術家であると思う。
引用文献 市川雅 國吉和子編『見ることの距離』 2000.11 新書館
参考文献 大野義人+大野一雄舞踏研究所編 『大野一雄|魂の糧』1999.9 フィルムアート社